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大野治長と淀殿はどんな関係だったの?

大野治長と淀殿はどんな関係だったの

この記事では大野治長と淀殿について書こうとしています。

ところで、大野治長と淀殿で一番の話題になるのが豊臣秀頼との関係です。

淀殿は豊臣秀吉の側室。淀殿と豊臣秀吉の間に生まれた子が豊臣秀頼。淀殿と豊臣秀吉の間には2人の男子が誕生しています。最初の子供は早世しましたが2人目の子供は成長。

この子供が豊臣秀頼です。

しかし、ここで問題が発生します。

豊臣秀吉には北政所という正室。そして数多くの側室がいました。ところが、豊臣秀吉の子供を産んだのはただ一人、淀殿のみです。

そんなところから豊臣秀頼は豊臣秀吉と淀殿との間に生まれた子供ではなく、いわゆる淀殿の不義密通の結果として生まれた子供である。

そうした噂は当時からあったようです。

では、淀殿の相手は誰だったのか。

こちらについても諸説があり、もちろん確定はしていません。

ただ、その筆頭にあげられるのが大野治長。

淀殿と大野治長とのただならぬ関係は当時の文書にも示されているようで、この噂の寿命はなんと400年以上続いていることになります。

淀殿と大野治長は不倫の関係にあったのか。そのことは現時点ではわかりません。

でも、淀殿にとって大野治長は近い関係にあったのは事実です。

この記事では、淀殿と大野治長の関係を簡単にご紹介していきます。

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大野治長と淀殿の関係を作ったのは大蔵卿局

大野治長と淀殿との関係を考えるとき、外すことのできないのが大蔵卿局です。

大蔵卿局は大野定長の妻で大野治長など4人の男児を産みます。つまり、大蔵卿局は大野治長の実母ということになります。

そして、大蔵卿局が乳母を務めたのが淀殿。

したがって、大野治長と淀殿は乳兄弟という関係になります。

淀殿は豊臣秀吉の側室にすぎない存在です。

しかし豊臣秀吉亡き後、豊臣秀吉の正室であった北政所が大坂城を退去すると、大坂城の実質的支配者はまだ子供であった豊臣秀頼ではなく、その母である淀殿になります。

淀殿が大坂城の実質的支配者になるとともに、その乳母であった大蔵卿局も権力を掌握するようになります。

大野治長は1569年に生まれます。

淀殿も諸説ありますが1569年生まれというのが通説なので、これが正しければ大野治長と淀殿は同い年であった可能性もあります。

大野治長は豊臣秀吉に仕え1589年には1万石の大名になります。

淀殿が豊臣秀吉の側室になったのは1588年と言われています。

そのことを考えると当時20歳に過ぎない大野治長が出世をしたのは淀殿の乳母であり、大野治長の母であった大蔵卿局の力によるものである事は疑う余地はないように思われます。

豊臣秀吉が亡くなると大野治長の運命は少し変化を見せます。

豊臣秀吉が亡くなった翌年の1599年に徳川家康を暗殺しようとする陰謀が露見します。大野治長はその首謀者の一人ではないかと嫌疑をかけられ下総国に流罪をされます。

もっともこの翌年の関ヶ原の戦いで大野治長は東軍に参加。戦後は徳川家康に許され豊臣家の元に戻ります。

大野治長の運命には紆余曲折があったものの結果的には大坂に戻ります。そして、その頃の実質的権力者は淀殿。

淀殿の乳母であった大蔵卿局も淀殿の元で権勢をふるったことから、必然的に大阪城内での大野治長の地位も高まっていきます。

当然、淀殿と大野治長には深い接点が生まれたはずですが、その関係を生み出したのは大蔵卿局。

大蔵卿局の存在があったからこそ、淀殿と大野治長は亡くなるまで密接な関係を持っていたことがうかがい知れます。

大坂冬の陣

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関ヶ原の戦い後、豊臣家は一大名の地位に転落してしまいました。しかし、大きな影響を持ち続けた大名であることは疑う余地はありません。

その豊臣家で家老を務めていたのは片桐且元です。

しかし、徳川家康が豊臣家に無理難題を仕掛ける過程で片桐且元は豊臣家を裏切るものとして豊臣家内部からも糾弾をされていました。

片桐且元は豊臣家から追放をされてしまいますが、同時に豊臣家の政務の実験を握ったのが大野治長。

大野治長は関東との手切れを予想して、続々と牢人衆を雇い入れ大坂城に入城をさせます。

大坂城に入城をした牢人衆。たとえば真田信繁や後藤基次は場外に討って出る野戦を主張します。

一方、淀殿などもとより大坂城に居る人たちは、大阪城の堅牢さを頼みとして籠城戦を主張します。

結果的に牢人衆の意見は退けられ大坂冬の陣は籠城戦に決定します。

このときの大野治長の意見がどうであったのかははっきりとはしていません。もっとも実務者は大野治長であったとしても、実質的権力者は淀殿。

大野治長と淀殿には乳兄弟という関係があります。

しかし、実際の生活の中では淀殿は主人で、大野治長は家臣。

生涯を通じて大野治長と淀殿は主従関係であったことから、大野治長の意志は別として、総意は淀殿の一存で決められたそんな気がします。

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大坂夏の陣

大坂冬の陣は講和により終結します。しかし講和の条件の中に大坂城の堀を埋めるという項目があったことから、大坂冬の陣が終って間もなく大坂城は裸城になってしまいます。

そこを狙ったのが徳川家康。

徳川家康は大坂冬の陣に続き大坂夏の陣を仕掛けます。

すでに大坂城には防御能力はありません。押し寄せる徳川の軍勢に蹴散らされ豊臣方は大敗。

大野治長は最後の仕事として淀殿と豊臣秀頼の命を助けようと尽力をしますが、徳川家はこれを拒否。

淀殿と豊臣秀頼、また大野治長と大蔵卿局は大坂城内で自害をし、1615年に豊臣家は滅亡をします。

大野治長の評価とは

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大野治長は淀殿の浮気相手で、豊臣秀頼は淀殿と大野治長の子供。噂とはいえ大野治長で最も有名なのはこの部分のようです。

このことだけでも大野治長の評価はけっして高いものではありませんが、実際はどうだったのでしょうか。

大野治長には輝かしい戦歴というものはありません。また、多くの軍勢を率いたこともありません。

さらに大野治長が政治的に活躍したのもほんのわずかな期間。それまで豊臣家を支えてきた片桐且元が大坂城を退去してから豊臣家が滅亡するまで。

片桐且元の評価も決して高くはないようですが、その片桐且元がいなくなった後に登場したのが大野治長。

さらに大野治長は結果的に豊臣家を滅亡に追い込んでいます。

豊臣家を滅亡に追い込んだ最大の元凶は淀殿と言われていますが、大野治長はその淀度に逆らえなかった家臣。

そう考えると大野治長は評価をするのがむしろ気の毒な人物。

そんな気もしますが、いかがでしょうか。


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