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大坂の陣の五人衆を簡単にご紹介します!

大坂の陣の五人衆を簡単にご紹介します

豊臣家が滅亡したのは1615年。

1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣。2度にわたる大坂の陣により豊臣家は滅亡します。

もっとも豊臣家も手をこまねいていたわけではありません。強大な敵である徳川家康に対して必死の抵抗を試みます。

豊臣家が行ったのは、牢人の雇い入れ。それも単なる牢人ではなく、過去に勇名をとどろかせた武将たち。

その中でも特に著名な武将を総称して大坂の陣の五人衆と呼ぶこともあるようです。

この記事では、大坂の陣の五人衆のそれぞれを簡単にご紹介していきます。

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大坂の陣の五人衆とは

では大坂の陣の五人衆とは誰のことでしょうか。

まずは名前を列記すると、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登の5人になります。

では、大坂の陣で活躍した大坂の陣の五人衆を簡単に見ていきたいと思います。

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大坂の陣の五人衆 真田信繁

真田信繁は真田幸村の名前で知られています。もっとも、真田幸村は後世に喧伝された名前。本人の生存時は、少なくともほとんどの期間を真田信繁として過ごしたと言われています。

真田信繁は、異説はあるもの一般には1567年に生まれ、1615年に亡くなったとされています。

真田信繁は策略家で知られた真田昌幸の次男。若いころは、上杉景勝や豊臣秀吉の人質として過ごした時期もあります。

真田家の当主は真田昌幸。

天下が安定していれば真田信繁も大名の次男としてそこそこの生活を送ることが出来たはずですが、その運命が一転したのが1600年の関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦いで真田昌幸と真田信繁が西軍についたのに対して、真田昌幸の長男である真田信之は東軍につきます。

結果は東軍の勝利。

東軍についた真田信之の尽力により、真田昌幸と真田信繁は死罪は免れたものの、紀州九度山に追放。

その後、真田昌幸は1611年に同地で亡くなり、真田信繁も忘れられたような存在になります。

真田信繁が再び脚光を浴びたのは1614年。

徳川家と豊臣家の戦いが避けられない事態となったとき、豊臣家の呼びかけに応じて真田信繁は九度山を脱出。大坂城に入城します。

大坂城に入城した真田信繁は、他の浪人と共に野戦を主張しますが、籠城戦に決定。

真田信繁は大坂城の弱点とされた地に新たに真田丸を築いて、徳川家康に対抗をします。

大坂の陣でまず起こったのが冬の陣。

大坂冬の陣で真田丸は大きな存在感を示し、押し寄せる敵に大きな打撃を与えます。

しかし、大坂の陣は間もなく終結。豊臣と徳川の和睦の条件として、真田丸は破却されてしまいます。

その後、起こったのが大坂夏の陣。真田丸だけでなく、堀を埋められた大坂城は裸城。押し寄せる敵を防御する力はすでになく、真田信繁も野戦で勝利を求めるべく出陣をします。

真田信繁が特に活躍したのが、1615年5月7日(以下の月日はすべて旧暦)の戦い。

真田信繁は徳川家康の本陣に攻めかかります。野戦の名人と言われた徳川家康も真田信繁の猛攻に会い、2度までも討死を覚悟したと言われています。

また、このときの奮闘ぶりで真田信繁は「日本一の兵」と称賛されるようになります。

もっとも、実際は多勢に無勢。最終的に真田信繁はこの大坂夏の陣で壮絶な討死を遂げることになります。

享年49歳。

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大坂の陣の五人衆 後藤基次

後藤基次は1560年に生まれ、1615年に亡くなります。後藤基次は後藤又兵衛の名前でも知られています。

後藤基次は黒田家の家臣となり頭角を現します。特に黒田官兵衛の時代には黒田家の家臣でありながらも1万石以上の領地を与えられています。

しかし、黒田家の当主が黒田長政になるとともに関係が悪化。黒田官兵衛が亡くなった後の1606年に後藤基次は黒田家を出奔。

勇猛な武将として知名度の高かった後藤基次は何人かの大名から奉公の話を持ち込まれますが、これを邪魔したのが黒田長政。

そのため後藤基次は浪人生活を余儀なくされます。

後藤基次は1614年大坂冬の陣が始まる前に豊臣家の要請により大坂城に入城。大坂冬の陣では6000人を預けられ、大坂の陣の五人衆の一人に数えられます。

翌年の大坂夏の陣では旧暦5月6日の道明寺の戦いに出陣。獅子奮迅の活躍を見せるものの最期は10倍の敵に囲まれ討死をします。

享年56歳。

大坂の陣の五人衆 毛利勝永

毛利勝永は1578年に生まれ、1615年に亡くなります。毛利勝永は元は森勝永。父の森吉成とともに豊臣秀吉の家臣として仕えます。

森勝永が毛利勝永となったのは1587年頃。豊臣秀吉から毛利氏にあやかるようにということでしょうか。父と共に改姓を命じられています。

毛利氏の石高は約6万石。しかし1600年の関ヶ原の戦いで西軍に味方したことから戦後に改易。

ただし、死罪になることはなく、加藤清正や山内一豊に預けられ、悠悠自適ともいえる生活を送ります。

1614年豊臣家の要請により大坂城に入城。

大坂冬の陣では目立つほどの活躍はしませんでしたが、豊臣家譜代の家臣ということで大坂の陣の五人衆の一人に名を連ねます。

その後、大坂の陣では5月6日の道明寺の戦い、5月7日の天王寺の戦いで活躍。

多くの牢人衆はこの頃戦場で命を落としますが、毛利勝永は譜代の家臣だっただけにその行動は少し異なります。

5月8日、毛利勝永は最後の仕事をします。

それは主君である豊臣秀頼の介錯。

豊臣秀頼の介錯を行った毛利勝永は大坂城において自害をします。

享年37歳。

大坂の陣の五人衆 長宗我部盛親

長宗我部盛親は1575年に生まれ、1615年に亡くなります。

長宗我部盛親は戦国時代の英雄長宗我部元親の4男です。

本来、長宗我部家は長宗我部元親の嫡男である長宗我部信親が継ぐはずでした。しかし、長宗我部信親は1586年に討死。

嫡男の長宗我部信親を溺愛していた長宗我部元親は長宗我部信親の討死後、行動がおかしくなったとも言われていますが後継者選びもその一つ。

本来、嫡男が亡くなれば次男が後を継ぐのが自然でしたが、長宗我部元親は多くの家臣の反対を押し切り4男の長宗我部盛親を強引に後継者にします。

こうした不自然な動きが長宗我部家衰退の原因とも言われていますが、これを決定づけたのが1600年の関ヶ原の戦い。

関ヶ原の戦いで西軍に味方した長宗我部盛親は戦後に改易。

長宗我部盛親は死罪こそ免れたものの京都で謹慎生活。長宗我部盛親は京都で寺子屋の師匠をしていたとも伝えられています。

1614年豊臣家の要請で大坂城に入城。

大坂城に入城に際しては旧長宗我部家の家臣も追随。長宗我部盛親は約1000人の旧臣と共に大坂城に入城したと伝えられています。

大坂冬の陣では戦陣に臨むもそれほど大きな活躍を見せることのなかった長宗我部盛親ですが、夏の陣では活躍。

大坂夏の陣では敵対する藤堂高虎隊を壊滅状態にまで追い込みます。しかし、その後は救援に駆け付けた井伊直孝の軍勢に押し込まれ退却をします。

この日が5月6日。

長宗我部盛親はその後の戦闘に参加することなく、大坂城落城と共に逃亡。ただ逃げ切ることはできず5月11日につかまり、5月15日に斬首をされます。

享年41歳。

大坂の陣の五人衆 明石全登

明石全登の生年は不明。亡くなったのは1618年とされていますがはっきりとしたことはわかっていません。

ただ、大坂の陣の五人衆の中では、大坂の陣後も生き残った唯一の武将と考えられています。

明石全登は宇喜多家の家臣として、関ヶ原の戦い直前には宇喜多秀家の重臣として約10万石の知行を有します。

1600年の関ヶ原の戦いで宇喜多家は西軍に味方。

戦後、宇喜多家が改易されるとともに、明石全登も牢人となりますが、キリシタンであったことから黒田如水などに庇護されることになります。

大坂の陣が始まると大坂城に入城しますが、その理由は大坂の陣の五人衆の他の4人とは異なり信仰上のこと。キリスト教を信仰するが故の大坂城入城と言われています。

明石全登は大坂夏の陣では多少の活躍を見せたようですが、最後は戦場を離脱。

明石全登については大坂夏の陣で討死をしたという説もありますが、落ち延びたという説もあり、どちらかといえば落ち延びたという説が有力なようです。

さいごに

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大坂の陣の五人衆についてご案内をしてきました。

大坂の陣の五人衆の5人に共通するのは、大坂城入城直前までは牢人であったこと。

そのため、大坂の陣での活躍の度合いはそれぞれにまったく異なります。

また、その最期もまったく異なります。

戦場で討死をした武将、戦後捕えられ斬首された武将、あるいは戦後も生き延びたと言われる武将もいます。

ただ、豊臣家が滅亡するときに名を挙げたのが、豊臣家の譜代の家臣ではなく、雇われた牢人であった。

豊臣家の最期を暗示させる。

それが大坂の陣の五人衆の存在であったのかもしれません。


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