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真田信繁(真田幸村)の妻は正室と側室で何人いたの?

真田信繁(真田幸村)の妻は何人いたの?

戦国時代の末期。

不遇の生活を送りながらも大坂の陣で徳川家康に対峙し、徳川家康を追いつめ、そして「日本一の兵(つわもの)」と讃えられたのが、真田信繁(真田幸村)です。

戦国時代、有力な武将は子孫を残すため、正室だけではなく何人もの側室。複数の妻を持つことはむしろ当たり前とされていました。

こんな現実的な事柄が「英雄、色を好む」につながったのかは定かではありませんが、「日本一の兵」である真田信繁(真田幸村)にも複数の妻が存在したことが確認をされています。

この記事では真田信繁(真田幸村)には何人の妻がいたのか。そして、それぞれの妻はどのような人物だったのか。そんなことを簡単にご紹介していきたいと思います。

なお、真田信繁は真田幸村の名前で知られていますが、少なくとも生涯のほとんどは真田信繁と名乗っていました。

そこで、今後は著名な真田幸村の名前ではなく、真田信繁の名前で記事を書き進めていきたいと思います。

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真田信繁の妻とは

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真田信繁は1567年に生まれ、1615年大坂夏の陣で壮絶な討死を遂げています。享年49歳。

決して長い人生とは言えませんが、この間、真田信繁には正室1人に、側室が3人と少なくとも4人の妻の存在が確認をされています。

それでは、真田信繁の妻の存在を時系列にご紹介していきます。

最初は2人の妻(側室)をご紹介します。

ただ、この2人の妻については実在は確認されているものの詳細はわかっていません。

また、側室になった順番も定かではありませんが、真田信繁の生涯を考えると、真田信繁にとって1人目、2人目の妻になっていた可能性が高いと思われます。

高橋内記の娘

高橋内記の生年は不明。亡くなったのは1616年。

高橋内記は関ヶ原の戦い後も、真田昌幸と真田信繁の親子に従い、最後も真田信繁と共に大坂の陣に参加。大坂夏の陣において、真田信繁と共に討死をしています。

高橋内記に何人の子供がいたのかははっきりとはしていませんが、そのうちの一人が真田信繁の側室になったと伝えられています。

なお、この妻は名前も明確には分かりません。一説には「采女(うねめ)」という名前の女性だったと言われています。

采女の生没年ははっきりとはしていません。分かっているのは真田信繁と采女の間には2人の女児が誕生していたこと。

一人は早世してしまいましたが、もう一人は阿梅という名前で伊達家の重臣片倉重長に後室として嫁いでいます。

堀田作兵衛の娘

堀田作兵衛の生没年は不明。

堀田作兵衛の嫡男である堀田興重は信濃で生活をしていましたが、大坂の陣において真田信繁に従い大坂城に入城。大坂冬の陣で討死をしています。

堀田作兵衛の娘が真田信繁の側室となっています。

真田信繁の側室となったこの女性については名前も生没年も明らかではありません。ただ実在したのは確かで、真田信繁が後に正室を迎えるまでは、正室であったとも考えられています。

なお、真田信繁と堀田作兵衛の娘の間には阿菊という女児が誕生しており、阿菊は後年、信濃の郷士である石合重定に嫁いだとされています。

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豊臣秀次の娘

真田信繁の3人目の側室とされるのが豊臣秀次の娘、後の隆清院です。

豊臣秀次は一時は豊臣秀吉の後継者として関白も務めた人物。しかし、最後は豊臣秀吉に切腹を命じられ、さらには豊臣秀次の妻や子供も合わせて誅殺をされてしまいます。

隆清院の生没年は明らかではありません。側室として真田信繁の側室になった時期も定かではありません。

一般的には豊臣秀次が亡くなった後に真田信繁の妻になったとも考えられていますが、命が助かっているところを見ると妻となった時期はもう少し早かったのかもしれません。

また、真田信繁が討死したことで隆清院と名乗るようになりましたが、それ以前の名前も分かってはいないようです。

隆清院について分かっていることは、大坂冬の陣には真田信繁と共に大坂城に入城をしていたこと。もっとも隆清院は妊娠をしていたため大坂冬の陣が終った後は大阪城を脱出し、その後、真田信繁の3男である後の三好幸信を産んでいます。

真田信繁と隆清院の間に生まれた子供は2人。なほと前述の三好幸信です。

なほは長じて出羽亀田藩主の岩城宣隆に嫁ぎ、三好幸信は岩城宣隆の家臣となっています。

大谷吉継の娘

真田信繁の正室となったのが大谷吉継の娘。後の竹林院です。

ただし、大谷吉継の娘ではなく妹、姪という説もあります。生年は不詳で、亡くなったのは1649年とされています。

竹林院が正室として真田信繁の妻となったのは1594年。他の3人の妻よりは正室であるだけ幾分の記録が残っているようです。

真田信繁と竹林院の間には、長男である真田幸昌、次男である片倉守信。また、あくり、阿昌蒲、おかねという3人の女児を授かっています。

真田幸昌は1616年、大坂夏の陣において豊臣秀頼と共に自刃。

片倉守信は後に仙台藩士。

あくりは会津藩の重臣である蒲生郷喜の妻。

阿昌蒲は伊達家の重臣である片倉定広の妻。

おかねは一時期は犬山城主を務めた石川貞清の妻。

はっきりとしていないところはあるものの、他の妻よりは竹林院に対する記録は多く残っているようです。

さいごに

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戦国時代の最後に輝いた武将。それが真田信繁です。

真田信繁には4人の妻がいたと言われています。また、子の数も多く、4人の男児と7人の女児に恵まれています。

もっとも、4人の妻から生まれたのは3人の男児と7人の女児で、残る一人の男児については母の名前がわかってはいません。

これまで真田信繁には4人の妻がいたと書いてきましたが、もしかしたら5人目の妻がいたのかもしれないですね。


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