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本多忠勝と本多正信はどんな関係だったの?

本多忠勝と本多正信はどんな関係だったの?

大名とは言いながらもその領地は狭く、しかも今川義元の人質として幼少期を過ごした徳川家康。

徳川家康は人質から天下の覇者に上り詰めましたが、それは徳川家康が単独で成し得たものではなく、数多くの家臣に支えられていたからこその結果です。

そして、その家臣の代表ともいえるのが、本多忠勝と本多正信。

本多忠勝と本多正信は本多一族として徳川家康を支えていますが、では本多忠勝と本多正信の関係はどうだったのでしょうか。

この記事では、本多忠勝と本多正信の関係について、少しばかりお伝えをしていきたいと思います。

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本多忠勝と本多正信の略歴

本多忠勝と本多正信の関係を考える前に2人の略歴をご紹介します。

本多忠勝とは

本多忠勝は、1548年に生まれ、1610年に亡くなります。

主君である徳川家康は、1543年に生まれ、1616年に亡くなりますので、本多忠勝は徳川家康より少し年少ですが、概ね同時代を生きていたことが分かります。

本多忠勝の大きな特徴は何といっても武将としての優秀さ。本多忠勝は徳川家の一武将として数多くの戦に参加をしていますが、生涯57回の戦いに臨みながら一回もかすり傷さえ負わなかったと言われています。

そのため本多忠勝は徳川家康の創業期を支えた武将として、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川四天王の一人に数えられています。

1590年、豊臣秀吉の命令により徳川家康は関東に居を定めます。このときに功績のあった家臣は続々と大名に取り立てられています。

徳川家康は吝嗇で功臣にも多大な領地を与えないと言われていましたが、このとき本多忠勝は10万石の大名に取り立てられています。

この時の領地は、上総国(現在の千葉県)大多喜でしたが、1600年の関ヶ原の戦い後は伊勢国桑名に同じく10万石で移封されています。

石高は同じ10万石ですが、これは本多忠勝が石高の増を固辞したためのもの。上総国よりも豊臣秀頼のいる大坂に近く、重要度の高い伊勢国に移ったことに大きな意味があったようです。

もっとも関ヶ原の戦いのとき、本多忠勝はすでに50歳を超えていて、当時としては老境の域に差し掛かっています。

また、それまで戦に明け暮れていた徳川家康も、関ヶ原の戦い後は豊臣家が大きな敵で、ほとんどの大名が徳川家になびいていました。

さらに、徳川家康は1603年に江戸幕府を創設します。

こうした背景から、武将としての本多忠勝の重要度は薄れていき、徳川家の中枢からも離れていきます。

本多忠勝の晩年は穏やかなもので、戦場で命をおとすこともありませんでしたが、最期は徳川家の中枢からは遠ざかっていた。

もっともこれは本多忠勝に限らず、徳川四天王に共通することともいえます。

本多正信とは

 

浜松城

浜松城



 

 

 

 

 

 

 

 

 

本多正信は1538年に生まれ、1616年に亡くなります。本多正信は徳川家康よりも約5歳の年長、本多忠勝よりも約10歳の年長でした。

本多正信は徳川家にあっては鷹匠の出身。小さな大名の中でもさらに身分の低い家に生まれています。

ところで、本多忠勝と異なり本多正信は一時期徳川家康の元を離れています。

桶狭間の戦い後、徳川家康は今川義元の人質から解き放たれ、一大名として独立します。しかし直後に起こったのが三河一向一揆。

このとき本多正信は徳川家康の敵方に属しています。

三河一向一揆は徳川家康の勝利に終わり、本多正信は徳川家康の元を出奔します。

その後の本多正信の足跡ははっきりとしていない部分もありますが、一説には戦国時代の梟雄といわれた松永久秀の元に身を寄せていたとも言われています。

徳川家康の元を離れて武将としての将来は半ば閉ざされていましたようなものでしたが、本多正信に才があったのか。松永久秀という謀略家の元で暮らしていたためなのか。

どのような理由があったのかはわかりませんが、本多正信は武力ではなく策略に秀でた武将として才能を発揮するようになります。

本多正信が徳川家康の元に帰参をしたのは本能寺の変より少し前とも言われています。

しかし、帰参後の本多正信は大変貌。

徳川家の発展とともに、徳川家康が戦場に臨む数は少なくなっていきますが、その代わりに以前に増して外交が重要になっていきます。

そうした時代の趨勢に見事に合致したのが本多正信。

本多忠勝など徳川四天王が徳川家康から遠ざかりますが、本多正信はむしろ徳川家康との距離を短くしていきます。

主従という関係ではあっても徳川家康よりも年長の本多正信。しかも従来の徳川家の家臣にはなかった策略の才能。

徳川家康は本多正信を重用。

徳川家康が初代将軍になるまでは徳川家康の側近として活躍し、2代将軍秀忠の時代になると今度は徳川秀忠の側近として大きな権力を振るうようになります。

本多正信は相模国甘縄の領主。もっともその石高は約1万石にすぎなかったと言われています。石高は少なくとも江戸に近い場所の領主。石高よりもはるかに大きな権力を持っていたのが本多正信です。

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本多忠勝と本多正信の関係とは

本多一族としての関係とは

本多氏の発祥は定かではありませんが、どうやら室町時代に三河国に定住し、その後松平氏(徳川氏の前身)に仕えたと考えられています。

徳川氏にとっては譜代中の譜代。そのため、本多氏は数多く枝分かれをしています。

その中で、本多忠勝の家系は平八郎家と言われ、本多正信の家系は弥八郎家と言われています。

一族で枝分かれをした場合、必ず宗家というのがあります。本多一族の宗家は本多忠勝の平八郎家というのが通説のようですが、弥八郎家が宗家という説もあり、この点ははっきりとはしていないようです。

本多忠勝と本多正信は同じ本多一族。

元をただせば同じなのかもしれませんが、本多忠勝と本多正信の時代はすでに枝分かれをしてから相当な時間が経過していたものと思われます。

今でいえば、遠い親戚。そんな感じだったのではないでしょうか。

本多忠勝と本多正信の関係

本多忠勝と本多正信。この2人はどんな関係だったのでしょうか。2人の関係については、本多忠勝側の発言によく表れているようです。

本多忠勝は、本多正信のことを「腰抜け」と評価しています。

勇猛な武将として徳川家康を支えてきたという自負の強い本多忠勝にしてみれば、徳川家康に腰巾着のように仕えている本多正信は我慢のできない存在だったように思われます。

また、本多忠勝は本多正信を「同じ本多一族ではあっても本多正信とはまったく無関係である」とも言い放っています。

血脈のあることは認めながらも、やはり本多一族から本多正信を排除したいという思いが強かったようです。

本多忠勝と本多正信の関係とは(まとめ)

岡崎城

岡崎城



 

 

 

 

 

 

 

 

本多忠勝と本多正信は概ね同じ時代に徳川家康に仕え、徳川家康を支えています。また、本多忠勝と本多正信は同じ本多一族。

こうした点で見れば、本多忠勝と本多正信は強い関係があったとも考えられないわけではありません。

しかし、実際の関係はまったくの逆。

まず、本多忠勝と本多正信が徳川家康に接していた時期は微妙にずれています。また、本多忠勝は武将として徳川家康に仕えていたのに対し、本多正信はむしろ謀臣として徳川家康に仕えています。

本多忠勝と本多正信の間に、直接に大きな争いは見受けられません。

しかし、2人の関係は決して良くはなかった。少なくとも、本多忠勝は本多正信を毛嫌いしていた。どうもそのように見受けられます。


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