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真田信尹と真田氏や徳川氏との関係とは!

真田信尹と真田氏や徳川氏との関係とは

真田信尹(さなだのぶただ)とはどのような武将だったのでしょうか。

また、真田信尹と真田氏や徳川氏はどのような関係だったのでしょうか。

この記事では江戸時代に入っても旗本として生き延びた真田信尹についてお伝えをしていきます。

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真田信尹とは

真田信尹。

決して知名度の高い人物ではありません。ただ、真田家を存続させたという意味では、実績を残しています。

真田信尹は1547年頃、真田幸隆の四男として生まれています。

真田幸隆は真田家の祖として知られる人物です。真田幸隆の三男は真田昌幸。

真田昌幸は三男、真田信尹は四男、2人とも他家に養子に出されていましたが、真田幸隆の長男と次男が戦死しため三男の真田昌幸が真田家の家督を継ぐことになります。

真田昌幸はご存知のとおり戦国時代に生きた武将。策略に長けた人物として有名ですが、真田信尹はその真田昌幸の弟ということになります。

また、真田昌幸の弟であるということは、真田昌幸の子である真田信幸や真田信繁は叔父と甥という関係になります。

真田信尹は最初は武田家に仕えます。武田家での地位は竜朱印奏者。武田家の中で竜朱印奏者とは軍制の中枢に位置するもの。

真田信尹は武田家の中で若いながらも注目される存在であったことがわかります。

しかし、武田家は1582年に滅亡。

真田幸隆の4男真田信尹は真田家の後継者になる立場でなかったことから、武田家にあるうちは武田家の旧家である加津野氏の養子となっていました。

武田家との関係が断たれたことにより、真田信尹は姓を真田に戻します。

兄の真田昌幸は武田家との関係が無くなると同時に真田家の存続を図るために近隣の強豪大名に接近を図ります。

最初は織田家。しかし織田信長が本能寺の変で倒れたことで、真田昌幸は上杉景勝、北条氏政、徳川家康と帰属先を転々としています。

一方、弟の真田信尹は真田昌幸とは別行動。

武田家との関係が断たれた後は、北条氏に接近。次いで徳川家康の臣下となり5000石を与えられます。

徳川家康は武田氏滅亡後、武田家の旧臣を積極的に臣下に組み入れていきますが、真田信尹もその一環であったものと思われます。

真田信尹は武田家との関係が断たれた後は、北条氏というワンクッションを置きながらも、徳川家康との関係を新たに構築しています。

後に真田昌幸も徳川家康との関係を深めようとします。このときに徳川家康と真田昌幸の間を取り持ったのは真田信尹とも言われています。

武田家滅亡後、真田昌幸と真田信尹は行動を別にしています。

その理由としては、真田昌幸には大名としての真田家を存続させるという使命があったが、真田信尹にはそれがなかったから。

しかし一説に真田信尹が徳川家康と関係を持ったのは真田昌幸の命であったとも言われています。

後年、真田昌幸は関ヶ原の戦いで、自らと次男の真田信繁は西軍、長男の真田信幸は東軍と袂を分かっています。

真田信幸は徳川氏と縁戚関係にあった。

真田昌幸は徳川家康が嫌いだった。

だから袂を分かったと言われていますが、真田家を2分することで結果がどうあれ真田家は残るはず。そのように考えて関ヶ原の戦いでは敵味方に分かれたとも言われています。

真田昌幸が真田信尹に徳川家と関係を持つようにと命じたのもこれと同じ理由ではないかとも考えられています。

真田昌幸自身が他の有力大名に帰属し、弟の真田信尹が徳川家康と関係を持っておけば、どちらかは生き残ることで真田家を残すことができる。

このように考えたとも言われています。

また、真田昌幸は徳川家康との関係を構築した真田信尹から様々な情報を受け取っていたとも言われています。

その後、真田信尹は一時期徳川家を離れて蒲生氏郷に仕えます。しかし、蒲生氏郷が亡くなると、1598年に徳川氏に帰参。

先の5000石には不足しますが4000石で改めて徳川氏との関係を構築していきます。

1600年の関ヶ原の戦い並びに1615年の大坂の陣での真田信尹は徳川氏の元で活躍。大坂の陣後は5200石となり、徳川氏の旗本として江戸時代を生き延びていきます。

亡くなったのは1632年。

真田信尹の甥である真田信之は93歳という高齢で亡くなりましたが、真田信尹も享年86歳。当時としては、とても長命を保っています。

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さいごに 真田信尹と真田信繁の関係とは

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真田信尹は真田家の中では早い時期に徳川氏との関係を築いています。

また、真田信尹は兄である真田昌幸とも帰属先は異なりながらも情報のやり取りをしていたと伝えられています。

もっとも、真田昌幸と真田信尹は兄弟であるが故の関係。真田昌幸が1611年に亡くなることで真田信尹と真田家との関係は弱くなっていったのではないでしょうか。

真田信尹と真田昌幸の嫡男である真田信幸との関係ははっきりとしていません。

真田信幸は大名として、真田信尹は旗本として、徳川氏との関係を深めていきますが、叔父と甥の実際の結びつきはどの程度のものだったのでしょうか。

ところで、真田昌幸の次男である真田信繁と真田信尹には不思議な関係が生まれます。

1614年大坂冬の陣が始まる前に真田信繁は大坂城に入城します。大坂冬の陣で真田信繁は真田丸を築いて大活躍。押し寄せる徳川方の軍勢を蹴散らします。

大坂冬の陣が終り、大坂夏の陣が始まるまでの間、つかの間の平和が訪れます。

このときに真田信尹と真田信繁の関係が生まれます。徳川家康の命を受け真田の一族である真田信尹は大坂城にいる真田信繁に接近。

10万石を与えるから徳川に味方するようにという徳川家康の言葉を伝えます。

真田信繁がこれを断ると徳川家康は信濃一国を与えるからとさらに好条件を示し真田信繁の懐柔に乗り出します。このとき仲介の任に当たったのも真田信尹。

結果的に交渉は徒労に終わり、大坂夏の陣で真田信繁は徳川家康の陣に押し寄せ、討死を覚悟するまで徳川家康を追い詰めることになります。

また、真田信繁が討死をした後のこと。

徳川家康が首実検をしたときに呼び出されたのが真田信尹。

もちろんその理由は真田信繁の首を確認することでしたが、真田信尹は真田信繁と思われる首をみてもあいまいな返事。

真田信尹のあいまいな返事に疑心暗義に陥った徳川家康は改めて真田信繁の生死を確認することになったとも伝えられています。

真田信尹と真田信繁には何やら不思議な縁があったことを感じさせてくれる逸話です。

真田信尹は真田氏の一族でありながら、最初から兄の真田昌幸とは別の道を歩んでいます。

一時期、真田昌幸は真田信尹の周旋により徳川氏との関係を構築しようとしますが、結果は敵対して最後は九度山で生涯を閉じます。

また、後年、真田信尹はやはり徳川氏に敵対する真田信繁の懐柔に乗り出しています。

真田信尹は早い時期から真田氏との関係を断ち、徳川氏との関係を築いています。

そのため真田の本家である真田昌幸との関係は次第に疎遠となり、最後は真田信繁の説得に乗り出すという役回りを演じることになります。

真田昌幸や真田信繁の派手さから考えると、いかにも地味な印象ですが、真田信幸とともに真田家を残したという意味ではやはり一廉の武将だったようにも思われます。


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