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徳川家康の真田幸村に対する評価を2つの場面から考える!

真田幸村が活躍した大坂城
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徳川家康の真田幸村に対する評価とは

徳川家康が名実ともに天下を取ったのは1615年。豊臣氏の滅亡とともに、徳川氏による天下が安定し、徳川家康は翌年に亡くなります。

その最後の戦いが大坂夏の陣です。

大坂夏の陣で豊臣秀頼は自害をしたと伝えられていますが、そこに至る過程で徳川家康を大いに苦しめたのが真田幸村です。

では、徳川家康は真田幸村をどのように評価をしていたのでしょうか。

この記事では、徳川家康の真田幸村に対する評価を、2つの場面に分けて考えてみたいと思います。

場面1 関ケ原の戦い

徳川家康と真田幸村は、生涯を通じて概ね敵対関係にありました。

まず、最初の場面は1600年の関ヶ原の戦いにおける第2次上田合戦です。

真田幸村の父である真田昌幸は、1585年の第1次上田合戦で徳川家康と戦っています。

しかし、このときの真田幸村は上杉景勝の元で人質として生活を送っているので、ここでの接点は見いだされません。

第1次上田合戦後、豊臣秀吉が天下を統一するとともに、真田昌幸は豊臣秀吉の命により、徳川家康の与力となります。

このときに徳川家康と真田幸村の接点はあったかもしれませんが、それほど濃いものではなかったと推測されます。

そして、1600年の第2次上田合戦。

1598年に豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康は天下取りへの野望を露わにし、1600年の関ヶ原の戦いを迎えます。

このときの主戦場は関ヶ原の地でしたが、真田昌幸と真田幸村の親子は、徳川秀忠の軍に対峙。

真田昌幸の居城である上田城を舞台にして戦闘が繰り広げられます。

真田昌幸は徳川秀忠に勝利をしたものの、関ヶ原の戦いそのものは徳川家康の勝利。

真田昌幸とその次男の真田幸村は、徳川方に味方した真田昌幸の長男である真田信幸の助命嘆願もあり、九度山に追放されるものの死罪は免れます。

このとき、真田昌幸は53歳。真田幸村は33歳の頃。

第2次上田合戦では真田幸村も活躍はしましたが、それは真田昌幸の指示によるものと一般には考えられていました。

後世、徳川家康を苦しめた武将として真田幸村は有名になります。

しかし関ヶ原の戦いまでは、父の真田昌幸に注目が集まり、真田幸村は目立たない存在。言い換えれば、真田幸村はそれほどに評価されてはいなかったように思われます。

九度山に追放された真田昌幸と真田幸村の親子ですが、真田昌幸は1611年に失意の中で亡くなります。

そして起こったのが、1614年の大坂冬の陣。

大坂冬の陣が始まる前、関ヶ原の戦いで敗れて牢人となっていた諸将が続々と大坂城に入城をします。

このときに真田幸村も大坂城に入城をしますが、このことを聞いた徳川家康は、当初真田昌幸が大坂城に入城したと思い込んだとも伝えられています。

真田昌幸はすでに亡くなっている。

そのことは徳川家康も知っていたのに、それでも真田昌幸が大坂城に入城したと勘違いをしてしまう。

それだけ徳川家康は、真田昌幸に対して高い評価をしていたことがわかります。

徳川家康の勘違いはすぐに解消し、大坂城に入城したのは真田昌幸ではなく、次男の真田幸村であることを確認して大いに安堵をしたようです。

つまり、この段階での徳川家康の真田幸村に対する評価は歯牙にもかけない存在。

徳川家康は、真田幸村をほとんど評価していなかったことが推測できます。

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場面2 大坂の陣

徳川家康の真田幸村に対する評価が一変したのは大坂の陣が始まってからです。

真田幸村など新たに大阪城に入城した武将は野戦に持ち込むことを主張します。

一方、豊臣家の武将は大坂城を恃みとして籠城戦を主張します。

戦になれた牢人衆は援軍の来るあてのない籠城戦を危惧しますが、結果的には籠城戦になります。

そのため真田幸村は大坂城外に真田丸という出城を作って、真田丸から攻め寄せる徳川軍に対峙します。

真田丸は大坂城の唯一の弱点と言われる場所に作られたことから、籠城戦に備えた出城と考えられていました。

しかし、近年では大坂城から外に出て野戦をしやすくするために設けられた城とも考えられています。

実際、真田幸村はこの真田丸から場外に出て、徳川方を翻弄して、少なくとも局地戦では勝利を収めています。

しかし、ほどなくして講和が成立。大坂冬の陣が終るとともに、講和の条件として真田丸は破却されてしまいます。

真田丸の出城としての命はほんの数か月。

さらに、真田丸が実戦の中で存在感を示したのはもっと短期間でしたが、大坂冬の陣の活躍で真田丸の存在が知られるとともに、真田丸を作った真田幸村の評価も一段と高まります。

もっとも、真田幸村の評価をしたのは味方のはずの豊臣家というよりも敵方の徳川家。特に徳川家康は、それまでの真田幸村に対する評価を一変させています。

具体的に大坂冬の陣が終った後、徳川家康は真田幸村に対して「10万石を与えるから味方になるように」と呼び掛けています。

真田幸村がこの提案を一蹴すると今度は「一国を与えるから味方になるように」と呼び掛けています。

当然、真田幸村はこの提案も一蹴し、大坂夏の陣に突入をしていきます。

真田丸は破却され、堀のほとんども埋め立てられた裸の大坂城。籠城戦は不可能で、必然的に野戦となります。しかし野戦は戦力差が表れます。

押し寄せる徳川方に対して、少ない勢力の豊臣方はどんどん蹴散らされていきます。

このときに徳川家康の本陣に攻撃をしかけたのが真田幸村の率いる軍勢。徳川家康は本陣を蹂躙され一時は討死を覚悟したとも言われています。

しかし、徳川方には味方が多数。一方の真田幸村に援軍はありません。

次第に徳川家康に押され、真田幸村は壮絶な討死を遂げます。

徳川家康は、大坂冬の陣の講和で圧倒的な有利な位置を確保していたとはいえ、それでも真田幸村を懐柔しようとして、一国を与えるという提案をしています。

真田幸村はこれを一蹴しましたが、徳川家康の真田幸村に対する高い評価が間違っていなかったことは、真田幸村の最期を見れば明らかなようです。

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まとめ

徳川家康は、当初、真田幸村をそれほど評価していなかったようです。

それは真田幸村に能力がなかったからではなく、徳川家康の眼前にいたのが真田幸村ではなく父の真田昌幸であったからです。

真田幸村は評価が低かったわけではなく、評価の対象でなかったようです。

その評価が一変したのが大坂の陣。

特に大坂冬の陣で干戈を交えることにより、徳川家康は真田幸村に対する評価を即座に一変させています。

それが「一国を与える」につながるわけですが、その直後の大坂夏の陣での真田幸村の戦い方を見ていると、徳川家康の真田幸村に対する評価は誤りではなかったことがわかります。

もっとも、このことは豊臣方が真田幸村を正しく評価できていなかったともいえます。

大坂冬の陣において籠城戦ではなく、真田幸村たちが主張する野戦に持ち込んでいれば、勝機があったのかもしれません。

もしかしたら徳川家康の真田幸村に対する警戒心。

言い換えれば、徳川家康が真田幸村を正しく評価したからこそ、徳川家が存続できたのかもしれない、そんな気もしています。

 

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