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木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂のその後はどうなったの?

武田家を祀る武田神社
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はじめに

この記事では、武田家の家臣でありながら武田勝頼を裏切り武田家を滅亡させた3人の家臣、木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂のその後についてお伝えします。

ところで武田家といえば武田信玄があまりにも有名ですが、武田信玄はどのような武将だったのでしょうか。

武田信玄は甲斐源氏嫡流の守護大名。

守護大名が生き残って戦国大名になった、由緒も実力もある武将で近隣大名に畏怖されていました。

武田信玄は武田家の第19代当主。

そして、その後を受けた武田勝頼も武田家の第20代当主として近隣大名に恐れられていました。

武田信玄が亡くなったのは1573年。しかし、武田家第20代当主となった武田勝頼は、たった9年後の1582年に天目山で自害。

武田勝頼の自害により、大名としての武田家は滅亡しています。

武田勝頼が自害に追い込まれた原因はいくつもあります。そうでなければ、武田信玄亡き後の9年間で、名門武田家が滅亡するはずがありません。

しかし、武田勝頼の自害の直接的な原因は家臣の裏切りにあるのも確かなこと。武田家が滅亡に至る過程で、武田勝頼から離反した家臣は多数に上ります。

そこで、この記事では武田勝頼を自害させ武田家を滅亡に追い込んだ代表的な家臣3人。木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂と、それぞれの武将のその後についてご案内します。

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木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂の裏切り方とその後

武田信玄像
武田勝頼を自害させ武田家を滅亡に追い込んだ家臣は多数に上りますが、代表的な人物として考えられるのは、木曽義昌、穴山梅雪、そして小山田信茂の3人の武田家家臣です。

では、3人の家臣の裏切り方とその後について、簡単にご案内します。

木曽義昌の裏切り方とその後

木曽義昌は、1540年に生まれ1595年に亡くなっています。

木曽氏は源義仲(木曽義仲)の流れを汲む名門で、木曽義昌は第19代当主として武田信玄とは敵対関係にありました。

しかし、武田信玄に敗れ、武田家の家臣に組み込まれます。

武田信玄は名門木曽家との関わり合いをより強固なものとするため、木曽義昌と武田信玄の娘との婚姻をすすめ、木曽義昌は武田家の親族衆になります。

武田信玄在世中は武田家の家臣としておとなしくしていた木曽義昌ですが、武田勝頼が武田家当主になるとともに離反。

織田信長の調略にもあい、1582年織田信長の甲州進行とともに、武田家に反旗を翻します。

結果として、武田勝頼は自害、武田家も滅亡。

木曽義昌はその直接のきっかけを作った武将として知られていますが、木曽義昌自身もこの時点で大きな代償を払っています。

親族衆であった木曽義昌の裏切りを知った武田勝頼は激怒。人質として預かっていた木曽義昌の母、嫡男、娘の3人が処刑の憂き目にあっています。

武田家滅亡後、木曽義昌は織田信長により10万石を与えられます。

しかし、武田家が滅亡して3か月後の本能寺の変で織田信長が倒れると、木曽義昌の立場も暗転。

織田信長が亡くなった後の混乱期をうまく泳ぎぎることができず、1590年には馴染みのある木曾谷から離されて、遠く下総国で1万石の大名になります。

さらに木曽義昌が亡くなり、子の木曽義利の代の1600年。木曽家は改易され大名としての地位を失っています。

穴山梅雪の裏切り方とその後

穴山梅雪は、1541年に生まれ1582年に亡くなっています。

穴山梅雪は母が武田信玄の姉、妻は武田信玄の娘。武田家の一門衆として重きをなします。

しかし、武田勝頼と意見が合わず対立。

武田勝頼の近臣とも諍いが多かったことから、織田信長と誼を通じ、武田勝頼から離反します。

ここで、前述の木曽義昌と異なるのは、穴山梅雪は武田勝頼から離反する前に、武田家の元にあった人質を逃がしていることです。

穴山梅雪は、織田家の誘いによって武田家を離れています。そのため武田家が滅亡しても、穴山梅雪は生き残り、徳川家康の与力となります。

しかし、本能寺の変で穴山梅雪の運命は一変。

徳川家康と共に堺や京を遊覧していた穴山梅雪は、織田信長の死を知るとともに、徳川家康とは別行動で自らの領地に帰ろうとします。

徳川家康はどうにか領国に帰ることができたのに対し、穴山梅雪は途中で落ち武者狩りに会い殺害されてしまいます。

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小山田信茂の裏切り方とその後

小山田信茂は、1539年に生まれ1582年に亡くなります。

小山田信茂は武田家に仕える武将でしたが、小山田信茂の祖母は武田信玄の父である武田信虎の妹。

小山田信茂も、武田家とは縁戚関係にある家柄でした。

小山田信茂は、武田信玄亡き後も武田勝頼に臣従。1582年、武田勝頼が織田信長の軍勢に攻め込まれても、なお家臣として武田勝頼に従っています。

しかし、武田勝頼が居城の新府城を捨て、小山田信茂の領地に退却する過程で、突如離反。

武田勝頼は信頼していた小山田信茂にも見限られたことで死を決意。結果的に天目山で自害。武田勝頼の自害をもって、大名としての武田家は滅亡します。

小山田信茂が武田勝頼から離反をしたのは、当然のことながら小山田信茂自身が生き残るため。

武田勝頼が自害をした後に、小山田信茂は織田信忠の元に参陣を願い出ます。

しかし、小山田信茂の立場は、前述の木曽義昌や穴山梅雪とは決定的に異なる点がありました。

木曽義昌や穴山梅雪は織田家の調略によって、武田勝頼を見限りました。

時は戦国時代。主に国を守る能力がないとわかれば、主を変えるのは当然のこと。木曽義昌や穴山梅雪には、武田勝頼を見限るうえでのプロセスがしっかりとありました。

ところが、小山田信茂にはそれがありません。

最後まで武田勝頼の家臣としてふるまいながら、武田勝頼に望みがないと分かると、自らの保身に走った。

小山田信茂の裏切りには理がありませんでした。

織田信忠は、自らの軍門に下ってきた小山田信茂に対して激怒。小山田信茂のみならず、母、妻、子などが即座に処刑をされています。

さいごに

武田家を祀る武田神社
武田勝頼の自害とともに、武田家は滅亡します。

それは武田勝頼に原因の多くがあったことは明らかですが、最終的に武田家の滅亡に拍車をかけたのは、武田勝頼の家臣の離反。

この記事ではその中でも主だった3人、木曽義昌、穴山梅雪、小山田信茂の裏切り方とその後について、簡単にご紹介してきました。

3人の家臣とも、自らの家の生き残りをかけて、武田家から離れたことは間違いありません。

しかし、実際のところ木曽義昌、穴山梅雪、小山田信茂は3人とも自らの家を残すことはできなかった。

厳しいことですが「裏切り」とは、そうしたものなのかもしれないですね。

 
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