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徳川家斉と側室お美代の方のピンポイント解説!

徳川家斉と側室お美代の方のピンポイント解説

15代続いた徳川将軍家。その第11代将軍についたのが徳川家斉です。

また、徳川家斉の側室として権勢をふるったのがお美代の方。

この記事では徳川家斉と側室お美代の方についてピンポイントでご案内をさせていただきます。

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徳川家斉とは

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徳川家斉は徳川15代将軍の中でもとりわけ異彩を放った人物として知られています。

徳川家斉は第8代将軍徳川吉宗と9代将軍徳川家重が創設した御三卿の出身です。初代将軍の徳川家康は徳川家を永続的に存続させるため宗家に後継ぎがいない場合に備えていわゆる御三家を作りました。

しかし、時の経過とともに血の結びつきも薄くなり、新たに設けられたのが御三卿です。

徳川宗家に後継者がいなくても、御三卿の中から将軍をだす。これが御三卿の役割で、徳川吉宗の時代に田安家と一橋家、徳川家重の時代に清水家が作られています。

第10代将軍は徳川家治でしたが、徳川家治の嫡子は早くに亡くなり、そのため一橋家から入ったのが徳川家斉になります。

徳川家斉は1787年、15歳で第11代将軍となり、その後1837年まで将軍の座に君臨します。徳川家斉はその後も大御所として勢力を保ち、亡くなったのは1841年、享年69歳です。

徳川家斉の第一の特色は将軍としての在位期間の長さ。在位期間は約50年。泰平の時代とはいえ、その在位は徳川15代の中でも最も長い期間となっています。

もっとも徳川家斉が善政を行ったのかというとそうでもなく、松平定信に行わせた寛政の改革は失敗。

また、徳川家斉の在位中に幕府財政は悪化の一途をたどり腐敗化も進み、地方では大塩平八郎の乱などが起こっています。

徳川家斉が異彩を放ったのは在位期間だけではありません。

徳川家斉は何よりも精力絶倫で知られていました。また精力を維持するためオットセイの粉末を服用していたことから「オットセイ将軍」などとも言われていたようです。

江戸時代、大名などは側室を持つことはお家存続のため当たり前のこととされていました。しかし、ものには限度というものがあります。

徳川家斉の正室は島津家の娘で近衛家の養女として徳川家斉に嫁いでいます。では徳川家斉に側室は何人いたのか。少なくとも16人はいたと伝えられています。

また当然のことながら子供の数も多く、男女合計で53人の子を授かったとされています。もっとも生存率は低く成人をしたのは約半分の28人であったようです。

徳川家斉に子が多かったのは理由があります。子が多ければそれだけ他家に養子に出せる、あるいは嫁がせることができる。つまり子が多ければ多いほど、徳川家の勢力を安泰にすることが出来る。

徳川家斉はそのように考えたのではないでしょうか。

しかし、それにしても側室の数も子の数も多すぎる。そうした意味では、徳川家斉はやはり異彩を放った人物と言えそうです。

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お美代の方とは

お美代の方は徳川家斉の側室の一人です。徳川家斉の寵愛を受け、3人の女子を授かっています。

2番目の子、徳川家斉にとっては23人目の娘は早世しましたが、最初の子(21人目)と3番目の子(24人目)の子は長じてそれぞれ加賀の前田家と広島の浅野家に嫁いでいます。

徳川家斉には16人の側室がいましたが、お美代の方は概ね13番目の側室。お美代の方は1797年に生まれ1872年に亡くなります。

お美代の方が徳川家斉の側室になったのがいつかは定かではありませんが、徳川家斉との間の最初の子が誕生したのが1813年なので、15歳頃には徳川家斉の側室になったと考えられます。

お美代の方が15歳だとすれば、徳川家斉は概ね40歳の頃。徳川家斉壮年期の側室がお美代の方になります。

お美代の方が他の側室と異なったのが権力欲の強さ。徳川家斉の寵愛が深かったため、お美代の方は様々に権力を奮うことが出来たようです。

お美代の方の父親は僧侶。お美代の方は徳川家斉に頼み込み寺を建立。父を住職にさせています。

また、お美代の方の子供は加賀の前田家に嫁いでいますが、そこで生まれた子を将軍継嗣にしてほしいと徳川家斉に懇願したそうです。

もっとも子だくさんの徳川家斉のこと。他家に嫁がせた娘の子を徳川将軍家の後継ぎにできるわけもありません。大奥で権力を振るっていたお美代の方もこの野望は叶えることはできませんでした。

お美代の方は大奥で大きな権勢がありましたが、それも徳川家斉あってこそ。

徳川家斉が亡くなった後、父には遠島の処分が下されます。また、自らも落飾して専行院となり、江戸城内にはいたものの権力の座からは遠く離されてしまいます。

お美代の方がいつ江戸城を去ったのかは定かではありません。

もっともお美代の方在世中には明治維新がありましたので、江戸城で一生を終えたわけではなく、現在の文京区にある寺院で生涯を終えたと伝えられています。

さいごに

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徳川家斉は長命であったからこそ、泰平の世であったからこそ、長く将軍を務めることができました。

しかし、徳川家斉が亡くなってから30年も経たずに時代は明治に移り変わっています。

徳川家斉の時代から世の中には不穏の動きがありましたが、死後はその動きが加速して一気に明治の世になります。

考えてみたら徳川家斉は泰平を謳歌した最後の将軍であったのかもしれません。

また、泰平の世であったからこそ、徳川家斉は多数の側室を抱えられたとも考えられます。そのことを考えたら、側室のお美代の方も泰平の世の産物だったのかもしれません。

そして、お美代の方が大奥の内部において権力闘争に明け暮れ、権力を持てたのもやはり泰平の世の産物だったのでしょうか。

大奥には長い歴史があり、その中には有名な女性を多数輩出しています。

お美代の方の時代に近いところでは、13代徳川家定の正室である篤姫、14代徳川家茂の正室である和宮。

このあたりが有名です。

もっとも事績という点で考えると、お美代の方の行ってきた行為は、篤姫や和宮に遠く及ばないと考えるのは私だけでしょうか。


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