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上田合戦とは!真田昌幸の評価を高めた2回にわたる戦い

上田合戦の舞台となった上田城
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真田昌幸とは

上田合戦で有名な真田昌幸は、戦国時代末期の武将で1547年に生まれ、1611年に亡くなります。

亡くなった時は牢人なので、知名度は低いはずですが、実際はとても高い評価を得ている武将です。

特に2度の上田合戦は、真田昌幸の評価を高める原因になったと言われています。

この記事では、2度の上田合戦のそれぞれの経緯について、簡単にご案内したいと思います。

第一次上田合戦までの経緯

第一次上田合戦は1585年に起こります。まずは、第一次上田合戦に至る経緯を簡単に記しておきます。

元々、真田昌幸は武田信玄に臣従してました。武田信玄亡きあとは、武田家の家督を継いだ武田勝頼に仕えます。

当時の真田昌幸は知将というよりは勇将。

戦場での活躍もあり、武田家における地位も高くなりつつある頃です。このままでいけば、武田家の家臣として所領を安堵されるはずでした。

しかし、真田昌幸の人生はここから目まぐるしく変わります。

その理由は武田家の滅亡。

武田勝頼は織田信長の家臣滝川一益に攻められ自害。戦国大名としての武田家の命運はここにつき、真田昌幸も運命の変化を味わうことになります。

武田家滅亡は1582年3月。

武田家滅亡後の真田昌幸は織田信長の家臣となりますが、同年6月の本能寺の変で織田信長が横死。

その後すぐに上杉景勝に臣従するものの、翌7月には北条氏直に鞍替えをします。しかし、これも一瞬のことで、同年9月には徳川家康に臣従をします。

真田昌幸の転変はまだ終わりません。

同年10月に敵対していた北条氏と徳川氏が同盟を結びます。このときの条件が真田領の一部を北条氏に割譲するというもの。

自らの力で領地拡大を図ってきた真田昌幸に、我慢できるものではありませんでした。

この諍いが表面化したのが1585年。領地割譲を求めた徳川家康に対し、真田昌幸は拒否して上杉景勝の元に走ります。

これが、第一次上田合戦のきっかけになります。

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第一次上田合戦で高めた真田昌幸の評価

第一次上田合戦は、1585年7月に起こります。

第一次上田合戦は、徳川氏が真田氏の居城である上田城を攻撃した戦いです。徳川勢8000人に対して、真田勢は2000人。

上田城には真田昌幸、支城である戸石城には長男の真田信幸が籠りました。

徳川勢は上田城に攻めかかりますが真田昌幸に蹴散らされ、さらに真田信幸も加勢して徳川勢を追い込みます。

第一次上田合戦は約3か月続きますが、結果的に徳川勢は撤退。第一次上田合戦は、徳川勢約1000人、真田勢約40人の被害を出して終結します。

第一次上田合戦は局地戦です。徳川家康にとって、さしたるダメージはありません。

しかし、徳川家康を蹴散らした真田昌幸の評価はこの戦いでかなり高まりました。

また、真田昌幸の評価だけでなく、第一次上田合戦により、長男の真田信幸も能力を高く評価されます。

後年、真田信幸は徳川四天王と言われた本多忠勝の娘小松姫と婚姻。

小松姫は徳川家康の養女という形で真田信幸に嫁いだことから、徳川家と真田信幸は縁戚関係となります。

 
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第二次上田合戦までの経緯

第二次上田合戦は、1600年に起こります。まずは第二次上田合戦に至る経緯を簡単に記しておきます。

豊臣秀吉が天下を統一するとともに真田昌幸も臣従します。しかし1598年、豊臣秀吉が亡くなると状況は一変。徳川家康が露骨に天下を狙い始めます。

1600年、徳川家康は上杉景勝を征伐するという名目で下野国小山に陣をはります。

このとき西では石田三成が決起。小山で行われた軍議の結果、諸将は西の石田三成討伐に向かうことになります。

真田昌幸も最初は徳川勢と行動を共にしていました。しかし、攻撃対象が上杉から石田に変わったことで方向転換。

真田昌幸と次男の真田信繁(真田幸村)は、徳川勢を離れ上田城に帰還。石田三成の西軍に与することを明確にします。

このとき、真田信幸は徳川氏の縁戚ということもあり徳川勢の東軍に残ります。第二次上田合戦を前に真田一族は分裂します。

 
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第二次上田合戦で高めた真田昌幸の評価

西に向かう東軍は、2つに分かれて行動します。

一つは東海道を西上するコースで徳川家康が軍を率います。

もう一つは、後に2代将軍となる徳川秀忠。徳川秀忠は父である徳川家康から、38000人の軍勢を預けられて中山道を西に進みます。

中山道を進む徳川勢は小諸に到着。上田城にこもる真田昌幸に開城を勧めます。

真田昌幸は即答せず、のらりくらりと時間を引き延ばします。この時間の引き延ばしは東軍の西進を遅らせるだけのもの。

数日して真田昌幸は徳川秀忠に対して宣戦布告。

真田昌幸の対応に激怒した徳川秀忠は上田城攻撃をします。

上田城にこもる真田勢は2000人。

徳川勢にとって上田城は通り道にある小さな城にすぎません。冷静な判断があれば、徳川勢は上田城を無視できるはずでした。

しかし、真田昌幸の目的は違っていました。

まず、開城を餌に交渉を長引かせる。そして徳川勢に攻めさせることで、さらに日数を稼ぎ徳川勢に少しでもダメージを与える。

そのため交渉を長引かせることと共に、徳川秀忠を怒らせることが必要でした。真田昌幸の作戦は見事に当たり、徳川秀忠は上田城攻撃に取り掛かります。

徳川勢は上田城の支城である戸石城を攻略します。守るのは真田昌幸の次男真田信繁(真田幸村)、攻めるのは長男の真田信幸です。

真田昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎであり、兄弟の戦いを望むものではありませんでした。

そのため、攻められた真田信繁(真田幸村)は兄と戦うことなく、上田城の真田昌幸の元に駆け込みます。

徳川勢から見たら敵は退却なので、真田信幸は武功を挙げたことになります。

一方の真田昌幸から見たら、全く損害の出ない、計算づくの戦術だったことになります。

その後は攻城戦です。

攻める徳川勢に対して、守る真田勢。人数的には多勢に無勢ですが上田城はそれほど大きくなく、攻め口が少ないため、徳川勢は攻撃に手間取ります。

対して真田勢には地の利があります。攻城戦は時間ばかりかかりますが、徳川勢にとって大きな戦果は挙げられませんでした。

さらに真田勢は徳川勢に対して夜戦を仕掛けます。

徳川秀忠はこれが初陣。また、地の利も真田勢にありました。大混乱に陥った徳川勢は退却、小諸まで逃げ帰ります。

第二次上田合戦は、たった1日の戦いです。

しかし、ここまでの交渉に数日間を要しています。2000人の兵力で約10倍の勢力を蹴散らしたということで、真田昌幸の評価は一段と上がることになりました。

その後、徳川秀忠は上田城攻略を諦め、関ヶ原に向かいます。

しかし、到着したときはすでに戦いは終わっていました。関ヶ原の戦いそのものは東軍の勝利になりましたが、父の徳川家康は激怒。

徳川四天王の一人と言われた榊原康政など徳川家の重臣のとりなしがあるまで、徳川秀忠は父である徳川家康に会うことさえできませんでした。

一方の真田昌幸。

第二次上田合戦には勝利したものの結果は西軍の敗戦。

真田信幸の助命嘆願により死罪は免れましたが、領地没収の上、九度山に追放。その地で生涯を閉じることになります。

しかし、ともに九度山に追放された真田信繁(真田幸村)は1614年、1615年の大坂の陣に豊臣方として参加。有名な真田丸を築いて徳川家康に敵対します。

これも結果は徳川家康の勝利。

真田信繁(真田幸村)は1615年大阪夏の陣で討死をしますが、知将としての評価は今に至るまで語り継がれています。

 
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まとめ

第一次上田合戦と第二次上田合戦は単なる局地戦です。歴史上、大きな変化をもたらすものではありません。

しかし、2つの上田合戦は何れも徳川家を敵とした戦い。しかもどちらの戦いでも真田昌幸は徳川家を破っています。

真田昌幸は徳川家に2度も勝った武将、あるいは徳川家康に2度も勝った武将として、その評価を不動のものとしました。

また、第一次上田合戦では長男の真田信幸、第二次上田合戦では次男の真田信繁(真田幸村)を育てていて、息子2人も高い評価を得ることになりました。

真田昌幸自身は不遇のうちに亡くなりましたが、長男の真田信幸の家系は江戸時代を通じて大名として存続。

次男の真田信繁(真田幸村)は大坂の陣で討死はしましたが、名将としての評価を今に伝えています。

上田合戦は、世の中を動かすほどの大きな戦いではなかったけれど、歴史ファンの浪漫を掻き立てる。そんな戦いだったように思われます。

 
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