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上杉景勝の評価を逸話から考えてみました!

上杉景勝の評価を逸話から考えてみました

上杉景勝は戦国時代の末期に登場した武将です。

上杉景勝は最盛期には120万石を領有しましたが最後は30万石。しかし上杉家そのものは江戸時代も存続しています。

そこで、この記事では上杉景勝の評価を逸話などから考えてみたいと思いますが、その前に上杉景勝の生涯を簡単に振り返ってみたいと思います。

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上杉景勝とは

上杉景勝は1556年に生まれ1623年、69歳で亡くなります。

上杉景勝の母は仙桃院。仙桃院は上杉謙信の姉でしたが、父である上杉政景が亡くなったことにより、幼い時に叔父である上杉謙信の養子になります。

その上杉謙信が亡くなったのは1578年。実子のいなかった上杉謙信には2人の養子が残り、上杉謙信が後継者を定めていなかったことから相続争いが始まります。

もう一人の養子は、関東の北条氏から迎えられていた上杉景虎です。

上杉景勝と上杉景虎の争いは御館の乱(おたてのらん)と呼ばれ、乱そのものが終息するのに約1年。

さらに御館の乱は上杉家を2分するほどの大きな戦いであったために、御館の乱後も上杉家の動揺を鎮めるのに数年を要し、上杉家は一時期勢力を落とします。

御館の乱は実家の北条氏の援護を受けていた上杉景虎が有利でした。また北条氏と同盟関係にあった武田勝頼も上杉景虎側につくと思われていました。

しかし、上杉景勝側は上杉氏の本拠地である春日山城と金蔵を押さえていました。

そこで上杉景勝は武田勝頼に働きかけて領地の一部割譲と金銭を差し出しました。このことで武田勝頼は上杉景勝に味方し勢力は一変。上杉景虎は自害をして御館の乱は終息します。

その後、すぐに襲ってきたのが織田信長。織田信長の武将柴田勝家が領内に進攻して上杉景勝は大敗。一時は上杉家が存亡の危機を迎えます。

しかし、1582年6月の本能寺の変で織田信長は横死。上杉景勝は生き残ることが出来ました。

織田信長の死後は、その後継者となった豊臣秀吉に臣従をします。

豊臣方の武将として転戦を重ね武功を上げ、このときに上杉景勝は約90万石を領有するようになり、さらには越後から会津への転封で120万石の大大名となり、豊臣政権下では5大老の一人ともなります。

上杉景勝の人生が暗転したのはその直後。1598年に豊臣秀吉亡き後、天下を狙った徳川家康。そして徳川家康に反旗を翻したのが上杉景勝です。

上杉景勝は1600年の関ヶ原の戦いに直接は参戦しなかったものの、徳川家に敵対したことで120万石から一挙に30万石に転落をします。

その後の上杉景勝は歴史の表舞台に華やかに登場することなく、1623年に米沢城で亡くなります。

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上杉景勝の逸話とそこから見える評価

毘沙門天

毘沙門天



 

 

 

 

 

 

 

 

上杉景勝にはいくつかの逸話が残されています。ここでは逸話のうちのいくつかをご紹介して、その逸話から上杉景勝の評価を考えてみたいと思います。

逸話と評価 その1

上杉景勝は無口という評価が定着していました。しかも家臣の前では絶対に笑わないことでも有名でした。家臣が上杉景勝の笑ったのを見たのはただの一度と伝えられています。

それは上杉景勝の飼っていた猿が上杉景勝がいつも座る場所に勝手に座った時のこと。

その猿は上杉景勝のモノマネを始めました。その仕草のおかしさに真似をされた上杉景勝自身が笑ってしまった。これが家臣に見せた唯一の笑顔であったと伝えられています。

この逸話は、上杉景勝が謹厳実直であったという評価を感じさせてくれます。

逸話と評価 その2

上杉景勝については前田慶次郎に関する逸話が残されています。

あるとき、豊臣秀吉が諸大名を招いて酒宴をします。そこに入ってきたのが前田慶次郎。前田慶次郎は猿のマネをして諸大名の膝の上にお座りするなど悪ふざけをします。

居並ぶ諸大名は前田慶次郎が風変わりであることを知っていましたし、酒宴の余興ということで黙っていました。

ところが、前田慶次郎。上杉景勝の膝の上にだけは乗ろうとはしませんでした。

それは上杉景勝があまりにも威風堂々としていたからということです。後年、上杉景勝に心酔した前田慶次郎は上杉景勝の家臣になります。

この逸話は、上杉景勝は威厳があるという評価を感じさせてくれます。

逸話と評価 その3

上杉家は関ヶ原の戦いで120万石から30万石に減封をされています。領地が4分の1に減ってしまったわけですから、当然、家臣も4分の1にしなければなりません。

しかし、上杉景勝は家臣を減らすことはしませんでした。

もっとも、これはかなり無理があること。

このときの対応は後年上杉家の財政を苦しめることになりますが、それはともあれ、上杉景勝は家臣に対して思いやりがある大名であるという評価を感じさせてくれる逸話です。

逸話と評価 その4

上杉景勝はある席で序列にこだわったという記録があります。それは上杉景勝と前田利家の席次。

時期がはっきりとはしていないのでいつ揉めたのかはわかりません。

ただ、1594年頃までは上杉景勝の方が前田利家よりも位階は上なので、その前のこととも思われます。上杉景勝は前田利家よりも席次が下だったことに苦情を述べています。

上杉景勝は権威を大事にするという評価を感じさせてくれる逸話です。

上杉景勝の評価

上杉景勝の武将としての評価にはいろいろな意見があるようです。

上杉景勝を愚将とする人は結果に着目をします。

120万石を30万石に減らしたのだから名将であるわけがない。また、石高を大幅に減らしたのに家臣を減らさなかったことで、経営が見えていないという評価もあります。

しかし、上杉景勝を武将として評価する声が多いのも事実です。

御館の乱では、上杉謙信以来のライバルであった武田家を懐柔して、上杉家の後継となります。

武田家は1582年に滅亡しましたが、石高を減らしても上杉家は江戸時代まで存続をしています。

関ヶ原の戦いも結果はともかくとして、戦前は西軍が有利とも伝えられていました。決して上杉景勝に将来が見えていなかったわけではありません。

結果だけを見たら名将とは呼べないのかもしれません。でも、多くの戦国大名が消えていく中、残り続けたのも事実です。

石高を大幅に減らしてしまったという結果はどうあれ、決して愚将ではなかった。

そんな気がしています。

また、上杉景勝の武将としての評価は逸話からも読み取ることが出来ます。

上杉景勝は謹厳実直でしかも規律や権威には厳格であった。もしかしたら家臣から見たら怖い主君に見えたのかもしれません。

また、今回の逸話ではご紹介をしていませんが上杉景勝も戦国武将。敵に対して容赦なく殺戮を行っていたというのも事実です。しかし、一方で味方である家臣はとても大切にした。

そんなことも逸話から読み取ることが出来そうです。

謹厳実直で怖い主君だけど、それでも家臣が慕い従っていた。このことは前述の前田慶次郎にも、あるいはかの有名な直江兼次にも共通することです。

やはり上杉景勝が優秀な武将だからこそ、上杉家は戦国の世が終っても存続することができた。個人的にはそのように思っています。


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