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豊臣秀頼生存説と真田信繁の関係とは?

豊臣秀頼には生存説があった!

豊臣秀吉の後継者として天下を治めるはずだった豊臣秀頼。しかし、豊臣秀吉がなくなった時の豊臣秀頼の年齢は5歳前後。

豊臣秀頼が元服したころ天下はすでに徳川家康が握っており、さらには1616年の大坂夏の陣で豊臣秀頼は21歳の短い生涯を閉じたと言われています。

しかし、その豊臣秀頼は生きていたという豊臣秀頼生存説があり、さらに豊臣秀頼生存説には真田信繁(真田幸村)が深く関わっていたという伝承もあるようです。

豊臣秀頼生存説とはどのようなものなのでしょうか。また真田信繁はどのように関係していたのでしょうか?

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豊臣秀頼生存説が出た理由

戦国時代には豊臣秀頼生存説だけでなく他にもいくつかの生存説がありました。

代表的なところでは、織田信長生存説、明智光秀生存説などでしょうか。特に明智光秀生存説では、明智光秀は天海になり徳川家康のブレーンとなっています。

では、豊臣秀頼生存説のでた理由とはなんでしょうか。

一番大きな理由は、亡くなった人を亡くなったと認めたくない庶民の心です。

特に大坂は豊臣秀吉が大きくした街。豊臣秀吉が亡くなって400年以上経過している今でも、大阪の人たちの豊臣秀吉に対する人気は根強いものがあります。

そして豊臣秀頼は豊臣秀吉が残した唯一の子。目の前で大坂城が落城し豊臣家は滅亡したとしても、豊臣秀頼は生かしておきたいというのは当然の心理かもしれません。

さらに豊臣秀頼生存説を後押ししたのは、落城しても豊臣秀頼の遺体が見つからなかったことです。

当時の江戸幕府にとって最大の敵は大坂城の豊臣秀頼。天下が徳川家のものであることを証明するためには豊臣秀頼の死亡を天下に明らかにする必要がありました。

その最大の目的を徳川家が果たせなかったことが豊臣秀頼生存説に拍車をかけます。

豊臣秀頼生存説に真田信繁が関係していた?

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豊臣秀頼は1616年6月4日に亡くなったとされています。真田信繁は1616年6月3日に亡くなったとされています。

豊臣秀頼が亡くなったことで豊臣家は滅亡をしました。しかし、その後、京や大坂を中心にある「わらべ唄」が流行ったと伝えられています。

そのわらべ歌とは、「花のような秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり加護島へ」というものです。

この唄を見ると豊臣秀頼生存説は同時に真田信繁生存説であったことがわかります。

しかもこの唄は、豊臣秀頼は生きていただけでなく真田信繁と共に薩摩(鹿児島)へ逃げたとも語られています。

わらべ歌とはいえ、より具体的な豊臣秀頼生存説です。

ところで豊臣秀頼に対して真田信繁は戦場での死です。討死なので遺体はあったはずです。

それでも真田信繁生存説が流れるのは、当時の真田信繁の知略や武略がとりわけ優れていたから。戦場で死んだのは真田信繁ではなく、真田信繁の影武者だったという伝説がここに生まれます。

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豊臣秀頼は鹿児島に行ってどうなった?

豊臣秀頼生存説の真偽は定かではありません。

豊臣秀頼生存説は普通に考えたら真実味はないはずです。それでも信じられているのは、豊臣秀頼生存説がいくつかの文書に残されているからです。

特に代表的とされるのは、「日田郡志」という古文書。また、当時の薩摩のお寺の文書にも豊臣秀頼生存説を示す記録があると言われています。

さらに、平戸の商館長リチャードコックスの日記には「豊臣秀頼の死体は発見されず、逃亡した可能性がある」という記述も見受けられます。

では、豊臣秀頼はどのように薩摩に落ち延びたのでしょうか。順を追うと次のようになります。

① 大阪落城のとき、島津義弘の命を受けた島津家家老の伊集院刑部に、豊臣秀頼とその子国松、真田信繁とその子大介などが救出される。一説に救出は後水尾天皇の島津家に対する勅命があったとも伝えられています。

② 豊臣秀頼、真田信繁たちは大阪城京橋口から脱出。四国路を経て豊前国中津に上陸、陸路で薩摩に到着。なお、豊前国中津には豊臣秀頼、真田信繁が昼食を食べたという記録が残っています。

③ 豊臣秀頼、真田信繁は薩摩国で伊集院氏の保護を受けます。そのため、豊臣秀頼のお墓も真田信繁のお墓も鹿児島県に現存すると伝えられています。

④ 豊臣秀頼の子である国松は後に豊後国日出藩藩主の木下延俊の次男となります。そして、木下縫殿助延由と改名し幕府に届けられ、さらに1641年には日出藩領のうち5000石を分与され、その家は明治まで続きます。

なお、木下延俊は豊臣秀吉の正室である北の政所の兄、木下家定の三男として豊後国日出藩3万石を知行しています。豊臣家が滅亡した後、豊臣家と唯一縁のあったのが木下家でした。

さいごに

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豊臣秀頼には根強い生存説があります。そして、豊臣秀頼生存説には真田信繁が深く関係をしていたと伝えられています。

豊臣秀頼生存説は「説」なので真偽のほどは分かりません。

しかし、豊臣秀頼生存説にはある程度の信憑性もあるようです。豊臣秀頼生存説は単純に豊臣秀吉が好きというだけでは、成り立たないような気もします。

豊臣秀頼生存説について現時点では真偽の判定は難しいかもしれませんが、今後、科学がさらに発展すれば分かる日が来るかもしれないですね。


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