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武市半平太はなぜ切腹したの?理由や方法をお伝えします

武市半平太が生まれ育った土佐の高知城
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武市半平太とは

武市半平太は、1829年に生まれ1865年切腹によりその生を終えています。

武市半平太は幕末の志士として知られていました。

維新の三傑といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人ですが、同時代の人の評価では西郷隆盛と比較されることが多かったようです。

西郷隆盛はその人柄が多くの人に愛されていましたが、武市半平太も西郷隆盛に匹敵するほどの傑物と言われていました。

ただ、知名度は維新の三傑には及びません。

その理由は主に2つあります。

理由の一つ目は武市半平太の出身に関わりがあります。

維新の三傑は薩摩と長州。よく薩長土肥と言われてはいますが中心は薩摩と長州で土佐と肥前は傍流。武市半平太は傍流の土佐出身でした。

また、理由の2つ目は武市半平太の置かれていた状況にあります。

武市半平太は早くから幕末の志士として活動し著名な存在でしたが、それだけに目立つ存在。

明治維新は1868年。武市半平太が切腹でその生涯を閉じたのは1865年。

明治維新を迎えるほんの少し前に命を落としたことで知名度に関しては少し劣っていました。

それでも武市半平太が幕末において傑出した人物であったのは間違いありません。

切腹を命じたのは土佐の実質的権力者である前藩主の山内容堂ですが、後年、武市半平太を切腹に追い込んだことを後悔していたと伝えられています。

この記事では、武市半平太が切腹に至る過程と切腹の方法について簡単にお伝えしたいと思います。

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武市半平太の略歴と切腹をした理由

武市半平太像武市半平太像
1829年土佐郷士の長男に生まれる
1841年剣術を始める
1856年江戸へ剣術修行 士学館で免許皆伝を受ける
1861年土佐勤王党を結成する
1862年土佐藩の重役で公武合体派の吉田東洋を暗殺する
吉田東洋暗殺後の一時期、武市半平太は尊王論者として登用されます。

また、この頃、京都では武市半平太の命を受けた岡田以蔵(人斬り以蔵)が天誅を繰り返しています。

 
1863年山内容堂が土佐勤王党の弾圧を始め武市半平太も投獄される
1865年切腹を命じられる
武市半平太は郷士の出身です。

土佐藩は武士階級の仕組みが複雑で、正式な藩士である上士とそれ以外の郷士は身分上明確に区分されていました。

武市半平太は郷士でありながらも上士の資格を持つ身分でしたが、それでも土佐藩での地位は下の方。

平時であれば出世などはできない身分でした。

しかし時は幕末。しかも武市半平太は学問にも武術にも優れ、各地へ遊歴するなど見聞も広めていて思想も堅固でした。

そのため多くの人に期待をされ土佐勤王党の結成の中心的役割を果たします。

また、土佐勤王党は一時期土佐藩の藩論を佐幕から勤王へ一定の方向付けをすることにも成功します。

しかし、その方法は吉田東洋の暗殺に示されるように強引なものが多かったこと。

土佐勤王党のメンバーの多くは郷士など身分的に低いものが多かったこと。

そうした要因が重なり実質的な土佐藩の権力者であった山内容堂に嫌われ多くが捕えられます。

捕えられた土佐勤王党のメンバーの多くは、前述のとおり身分の低いものが多かったことから最終的には斬首で処刑されます。

それに対して、武市半平太は少しばかり身分が高かったことから切腹による死罪ということになりました。

武市半平太は人物・識見豊かな人物として知られていましたが切腹の作法も見事。

最後に、武市半平太の切腹の方法についてお伝えします。

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武市半平太の切腹の方法

武市半平太が生まれ育った土佐の高知城高知城

一般的な切腹は、腹に刀をあて切り裂きます。その回数は1回で、頃合いを見はからって介錯人が首を切り落とします。

それに対して武市半平太の切腹の方法は「三文字割腹」。つまり刀を3回、腹に突き立てる切腹の方法です。

切腹といっても1回で絶命することは少ないと言われています。刀を腹に突き立てるのは作法。実際は介錯により命を絶つというのが一般的です。

一方、武市半平太は切腹により命を絶とうとした。そのために行ったのがより苦痛を伴う三文字割腹です。

三文字割腹をしても絶命には至らず、最終的には介錯により命を絶ったようですが、三文字割腹には武市半平太の武士の魂というのが込められているような気がします。

 
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