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新撰組で最強の剣士はだれ?候補はこの3人!

新撰組とは

新撰組は主に幕末の京都や大阪で幕府のために活動をした集団です。

新撰組の活動は1863年から1869年まで。 ただ京都や大阪で活動した期間といえば1863年から1867年頃まで。活動期間は約5年と短いものでしたが、その印象が極めて強烈だったため今でも多くのファンがいます。

そのファンの中でも話題になるのが新撰組の最強剣士。

新撰組でだれが最強剣士だったのか?

もちろん明確な答えが出るわけもありませんが新撰組ファンにとっては永遠のテーマになっています。

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新撰組の最強剣士を決めるのが難しい理由

新撰組の最強剣士については候補が何人もいます。 ただ、本当に誰が最強だったのか。その答えはでていません。

なぜなら最強剣士を決めるのが難しいからです。では、どうして難しいのか、その理由を考えてみました。

新撰組の隊士は固定していなかった

新撰組は活動期間の短い割には隊士が固定しない集団でした。特に掟がとても厳しかったため切腹だけでなく粛清のような出来事もありました。

その代表が芹沢鴨の暗殺です。新撰組結成当初、新撰組の代表ともいえたのが芹沢鴨です。しかし芹沢鴨は粗暴で金策も勝手にしていたので、近藤勇などに暗殺をされています。

その暗殺の方法は、まず芹沢鴨を酒宴を設けて酔わせます。そして芹沢鴨が寝ているところを近藤勇他数人が集団で襲い掛かり殺害をします。

芹沢鴨は酔わせなければ倒せなかった、集団でかからなければ倒せなかった。実際に芹沢鴨は剣豪としても有名でしたが、かといって芹沢鴨を最強の剣士の候補として挙げる人はほとんどいないようです。

新撰組が結成されてから瓦解するまで、隊士が固定していなかったのが新撰組で、そのため最強の剣士を決めるのが難しいという側面がありました。

剣術には道場での剣と実戦での剣があった

幕末でなければ最強の剣士を決めるのは簡単です。それは道場での剣法だけで優劣を決められるからです。

しかし新撰組の役割は主に京都の治安を守ること。新撰組にとっては道場の剣法よりも実戦の剣法の方がずっと大切でした。

また実戦の場合、新撰組の特徴的な戦い方は多数対少数でした。つまり、新撰組は敵に対して常に数的な優位を保つことを基本としていました。

新撰組最強の剣士を考える場合、道場での剣で考えるのか、実戦での剣を考えるのか。考え方には2通りあります。また、実戦での剣はその判定基準が難しいという側面もありました。

新撰組には多士済々の武芸者が揃っていた

当時の武器の中心は剣です。しかし、新撰組には剣術以外の武術を得意とする隊員も多数いました。たとえば、柔術、棒術、槍術です。

新撰組最強の武芸者は原田左之助という説があります。原田左之助は槍の名手として知られていました。

したがって、新撰組で一番武芸に秀でていたのは誰かだと、ますます混迷を深めてしまいますが、今回は剣士に限定して新撰組最強を考えています。

幹部以外でも優れた剣士はいた

新撰組で最強の剣士については、これからお伝えするとおり3人の候補者がいます。3人に共通するのは新選組の創設から瓦解に至るまで幹部であったこと。

新撰組は多い時で200人を超える隊士がいました。でも残念なことに、そうした人たちの記録はほとんど残ってはいません。そのため新撰組最強の剣士も幹部からその候補を考えるのが一般的になります。

なお、幹部以外で剣術に優れた剣士の代表としては、吉村貫一郎や服部武雄などがいます。

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新撰組の最強剣士 候補は3人

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前置きが長くなりましたが、新撰組の最強剣士の候補をあげてみます。

その候補とは

永倉新八

斎藤一

沖田総司

の3人です。

永倉新八

永倉新八は1839年に生まれ1915年に亡くなります。新撰組には最初から関与していましたが、不思議なのは近藤勇とは何回も衝突していること。そのため新撰組の最後を迎えるころ近藤勇と袂を分かっています。

永倉新八は新選組生き残り隊士の一人としても知られ、大正4年に亡くなります。

永倉新八の実力については元新撰組の阿部十郎が明治32年に語った記録にあります。あくまでも道場剣法ということですが、1位が永倉新八、2位が沖田総司、3位が斎藤一ということになっています。

斎藤一

斎藤一も新撰組では数少ない生き残りの隊士です。1844年に生まれ、永倉新八と同じく1915年に亡くなります。

永倉新八は斎藤一を評して「無敵の剣」、沖田総司を評して「猛者の剣」としています。このことから、沖田総司より斎藤一を一段上に置いていることが読み取れます。

また、斎藤一は池田屋事件をはじめとして、新撰組が関わった事件にはほとんど関与しているとされ、さらに明治10年の西南戦争にも従軍しています。 一説に斎藤一は新撰組で最も多く人を斬った剣士とも言われています。

斎藤一は人を斬ることについて「斬り合いというのは型で行えるようなものではなく、夢中のなかで行うものだ。」というようなことを語っています。

この言葉は実戦の場数を多く踏んでいるからこその言葉ではないでしょうか。

沖田総司

沖田総司は1844年に生まれ1868年に結核で亡くなります。沖田総司は幼少のころから後に近藤勇が道場主を務めた試衛館の内弟子となります。

近藤勇も土方歳三も沖田総司を弟のようにかわいがったと伝えられていますが、病気のため新撰組も後期に入ったころは療養生活を余儀なくされています。

沖田総司は天才剣士と言われていました。特に稽古では厳しさから、師匠である近藤勇からも注意を受けていたほどです。

沖田総司の剣術でとりわけ有名なのが「三段突き」。三段突きとは踏み込みが一度だけなのに、その間に三回の突きを入れるというもので、剣のスピードが猛烈に速いことを意味しています。

また、道場の剣法では師匠の近藤勇をも倒すであろうと言われています。

ただし、前述のとおり沖田総司は結核。結核の症状は池田屋事件の時には出ていたと言われていますから、実戦での活動はそれほど多くはなかったようです。

したがって、沖田総司の剣法は道場では随一。しかし、実戦での実力は測りきれなかったのではないでしょうか。

新撰組の最強剣士 近藤勇と土方歳三はどうなの?

近藤勇は試衛館の道場主として新撰組に加わります。また、池田屋事件でも中心的な役割を果たしています。道場においても実戦においても弱かったはずはありません。

ただ、新撰組が大きくなるにつれ、近藤勇には政治的活動の時間が多くなります。

新撰組を世の中に認めさせ、大きくするために多くの時間が割かれるようになったため、その分道場からも実戦からも遠ざかることになります。

道場での剣法も実戦での剣法も優れていたとは思われますが、やはり候補にはなりにくいかもしれません。

一方の、土方歳三も同じです。

新撰組が大きくなるにつれ、副長である土方歳三には新撰組という組織の統制という大きな仕事ができます。

組織の統制面では「鬼の副長」と異名をとるほど厳しいものだったようですが、そのために道場からも実戦からも少し距離を置くことになります。

土方歳三については多くの隊士が道場で稽古することを嫌がったとされています。それは土方歳三の剣法が我流で予測がつかなかったから。土方歳三は道場ではそれほど強くはなかったようです。

もっとも土方歳三は喧嘩慣れしていたとも言われています。そのため実戦では相当に強かったとも言われています。

まとめ

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新撰組は活動期間が短かったとはいえ、メンバーは多士済々でした。しかも武芸に秀でた人たちの集団であったため、特に敵方からは恐れられていました。

その中で最強の剣士を決めることは難しいですし、確定することは不可能です。ただ、あえて最強の剣士を決めるとすれば、

道場の剣法では永倉新八。ただし、もしかしたら沖田総司という選択もあるかもしれません。

一方、実戦の剣法では何といっても斎藤一。そんな気がします。

果たしてどうでしょうか?


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